【 概 要 】−塩田北条家は8代執権北条時宗の連署を担った北条義政が信濃国小県郡塩田荘(現在の長野県上田市南西部の塩田平全域)を与えられ住した事が始まりとされます。その後、国時、俊時の3代にわたり北条家が支配し、文化的にも飛躍的に発展し3代を総称として塩田流北条氏と称し、塩田荘は「信州の鎌倉」とも呼ばれました。初代北条義政は鎌倉幕府の六波羅探題北方、連署を務めた北条重時の5男として生まれ自らも引付衆、評定衆、二番引付頭、連署などの幕府の要職を歴任し北条時宗の側近として補佐する立場にありました。
元寇の文永の役(1274)際は時宗との意見の違いから建治3年(1277)4月4日に善光寺詣でをかっこつけて領地である塩田荘に隠遁したとされ、後年は幕政からは距離をとっています(隠遁した理由は諸説あり、義政も37歳で才能溢れていた人材だった事から幕府からも復帰するように要請されていたようです)。塩田時代には居城である塩田城の築城や別所温泉にある安楽寺の再興などを行い弘安4年(1281)11月27日に死去、享年40歳。
跡を継いだ国時も二番引付頭人、一番引付頭人などの要職を歴任、安楽寺や常楽寺、前山寺、中禅寺などを引き続き庇護しています。元弘3年(1333)の鎌倉幕府滅亡の際には鎌倉に救援に向かいましたが新田義貞軍に敗れ俊時と共に鎌倉東勝寺で自害しています。龍光院(上田市)は塩田流北条氏の菩提寺とされ北条国時が弘安5年(1282)、父親である義政の菩提を弔う為に月渓和尚を招いて開いたのが始まりとされ境内には義政の墓が建立されています。国時と俊時の墓碑は塩田城の旧跡に建立されています。
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