【 概 要 】−皆川広照は天文17年(1548)、下野国の国人領主である皆川俊宗の次男として生まれ、天正4年(1576)、兄である皆川広勝の死去に伴い皆川家惣領の家督を継ぎました。本貫としていた下野国皆川領(栃木県栃木市皆川)は越後国上杉家、小田原北条氏、佐竹氏を中心とした北部関東連合に囲まれた地域だった事から広照は形式上の主家である宇都宮家に従いつつ、その都度大勢力に与する柔軟な対応を見せ戦国時代を乗り切っています。天正18年(1590)に発生した小田原の役では北条氏方として小田原城に立て籠もったものの、形成不利と見るや、面識のあった徳川家康に逸早く投降し領土が安堵されています。
その後は徳川家に臣従したようで、慶長5年(1600)に発生した関ヶ原の戦いでも徳川方として行動し、慶長8年(1603)には徳川家康の6男である松平忠輝の御附家老に抜擢され、忠輝が川島藩(松代藩)14万石の藩主になると、広勝は飯山領4万石(本領と合わせると7万5千石)が加増され、事実上の飯山藩初代藩主となっています。形式上、皆川広照は忠輝の御附家老の為、飯山藩は独立した藩とは言えず、皆川城も広照の管理下にあったものの城主ではなく城代という肩書だったと思われます。
広照が飯山城に入ると、慶長9年(1604)4月15日に飯山八幡神社(現在の飯笠山神社:3石)、飯山諏訪神社(現在は飯笠山神社に合祀:1石)、飯山飯縄神社(現在は飯笠山神社に合祀:1石)、南條諏訪神社(2石)、上倉諏訪神社(2石)、奈良澤神社(1石)、諏訪神社(1石)、飯縄神社(1石)、諏訪神社(1石)に社領の寄進が行われ、慶長9年(1604)6月1日に真宗寺に2石2斗1升の寺領を寄進、慶長9年(1604)6月28日に勝願寺に2石の寺領を寄進しています。
現存する皆川広照の飯山藩での目立った実績は少なく、慶長11年(1606)に弟である皆川廣泰と共に小菅神社に寄進された絵馬2面(黒神馬・白神馬)が貴重な事から平成9年(1997)に飯山市指定文化財に指定されています。
慶長14年(1609)、皆川広照は松平忠輝との対立が顕著になった為、幕府には忠輝と側近として大きな権限を有していた花井吉成を訴えました。しかし幕府からは讒言と断罪され、逆に騒動を起こした張本人として改易となっています(大坂の陣で功績があり小石ながら復権しています)。
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