【 概 要 】−文禄5年(1596)、仙石秀久の正室の正室、野々村幸成の娘死去、戒名「本陽院殿槃室妙栄大禅定尼」、秀久は菩提を弔う為に大乗院日達上人を招いて日蓮宗の寺院を開山、戒名に因み本陽寺と名付けられました。当初は小諸城下にありましたが元和8年(1622)、跡を継いだ仙石忠政が上田藩に移封になり上田城(長野県上田市)の鬼門(北東方向)にあたる現在地に境内を移しました。
本陽寺(上田市)は仙石家の菩提寺ですが女性や童子などに限られていたようで、小諸藩主だった秀久や上田藩2代藩主政俊は芳泉寺(宝泉寺)に埋葬されています(忠政は東京都港区高輪の東禅寺に埋葬)。本陽寺の目立った埋葬者は寛永17年(1640)、2代藩主政俊と側室好陽院の間で生まれた長男、忠俊で当初は時期藩主として上田と江戸の参勤交代もこなしていましたが寛永7年(1667)に死去、享年28歳、戒名「春光院殿梅心日香大居士」、当初は上田城下の北に位置する太郎山(標高:1164m)の麓に埋葬され「山の御廟所」と呼ばれていましたが、宝永3年(1706)、忠俊の長男で3代藩主政明が出石藩に移封になった際、本場寺に改葬されています。
仙石家以外には松平忠昭の正室である栄昌院(明石藩主・松平忠国の娘、戒名:栄昌院殿妙寿日久大姉叔霊)で宝永6年(1709)に上田で死去し本陽寺に葬られています(詳細は分かりませんが、養子である松平忠周が上田藩主に就任した際、栄昌院も上田に随行したと思われます)。
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