【 概 要 】−諏訪忠虎は寛文3年(1663)、高島藩3代藩主諏訪忠晴と内藤忠興の養女との子供として生まれました。幼少の頃に5代将軍徳川綱吉、後年は服部嵐雪に師事を受るなど学問に通じ、特に俳諧を好み庶民にも広げたとされます(俳号は「闡幽」)。延宝6年(1678)に従五位下に叙任、安芸守に任ぜられています。元禄8年(1695)忠晴の死去に伴い諏訪家の家督を継ぎ、高島藩4代藩主に就任しています。
元禄16年(1703)、赤穂討ち入り事件の対応が「仕方不届」とされた吉良義周が諏訪忠虎預かりとなり、義周は家臣130名に護送を命じ高島城の南丸に幽閉させています。義周に対して丁重に扱ったものの病弱だった事から寝たきりとなり宝永3年(1706)に病死、遺体は検視される必要性から防腐処理の為に塩漬けにされ、幕府から派遣された石谷清職の確認を受け法華寺(長野県諏訪市)に葬っています。
忠虎は元禄13年(1700)から元禄14年(1701)と宝永2年(1705)から宝永3年(1706)、宝永5年(1708)から宝永6年(1709)、正徳4年(1714)から正徳5年(1715)、享保3年(1718)から享保4年(1719)、享保8年(1723)から享保9年(1724)と合計6度にわたり大坂加番を担っており、随伴した家臣の一人た渋江隼之丞が制作した「押し葉・押し花」には大坂周辺から採取した草花を見る事が出来ます。
忠虎は郡中法度や家中法度の制定、郡内の林改めの実地するなど尽力しましたが、火災により高島藩江戸藩邸が焼失、享保6年(1721)に再建した際には上諏訪町から100両、上桑原から8両借用するなど財政が逼迫していた事が窺えます。享保16年(1731)死去、享年69歳、戒名:洞虎院殿彰住蝉幽大居士、諏訪家の菩提寺である温泉寺に墓碑が建立されています。
諏訪忠虎は社寺の保護も行い元禄年間(1688〜1703年)には白岩観音堂(惣持院)を現在地に移転、正徳5年(1715)には千鹿頭神社(長野県松本市)の神田側の本殿(松本市重要文化財)を造営、同年には小坂観音院(長野県岡谷市)の観音堂を造営しています。
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