【 概 要 】−松平忠倶は寛永11年(1634)、掛川藩(静岡県掛川市)4万石の藩主松平忠重と木下延俊の娘との子供として生まれました。寛永16年(1639)に忠重の死去に伴い桜井松平家の家督を継ぎ、掛川藩の藩主に就任しています。その1か月後、飯山藩(長野県飯山市)に移封が決まり、正保3年(1646)には従五位下・遠江守となり、正保3年(1658)から元禄8年(1695)まで4回の大坂加番に任ぜられています。
松平忠倶の飯山藩での実績は多く、特に野田喜左衛門を抜擢し領内の灌漑設備を整備した事で飛躍的に新田開発が進み安定的な財政を築く事が出来ました。野田喜左衛門は現在の兵庫県姫路市の出身でしたが松平忠倶が大坂加番の際、才能を見出され飯山藩の川除普請奉行に抜擢、「大倉用水」と「石村用水」の改修や「今井用水」、「日影用水、「蟹沢用水」、「堀堰」、「新堰」、「芋川用水」、「倉井用水」、「普光寺用水」などの開削を30年間にわたって行い大きな功績を残しています(本光寺には野田喜左衛門の墓碑が建立されています)。
松平忠倶は社寺の保護も行い寛永年間(1624〜1645年)に野沢温泉の大湯の地に別荘を設けた際に温泉薬師堂を現在地に遷し、寛永16年(1639)に飯山移封に伴い随行してきた西念寺に寺地を寄進、慶安2年(1649)には伊勢神社の社殿を再建、万治3年(1660)には小菅神社の里社本殿を改築しています。
寛文5年(1665)には小内八幡神社(長野県中野市)の社殿を造営し「馬市」を再興、寛文6年(1666)には真田信之の庶子で飯山城で生まれた道鏡慧端の為に草庵(正受庵)を建設、寛文12年(1672)には忠倶の姉である比丘尼雲院が飯笠山神社境内に薬師如来堂を造営、同年には蓮證寺に寺地を寄進、延宝2年(1674)には忠倶の命により健御名方富命彦神別神社の五束の太々神楽が奉修されています。
元禄9年(1696)死去、享年63歳、戒名、然誉浄梵道恵深正院、松平家の菩提寺である忠恩寺(長野県飯山市)に墓碑が建立されています。
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