開善寺(飯田市)概要: 畳秀山開善寺は長野県飯田市上川路に境内を構えている臨済宗妙心寺派の寺院です。開善寺の創建は建武2年(1335)、当時の伊賀良荘の地頭江間氏の妻江間尼浄元が寺領を寄進し、小笠原貞宗(信濃守護・開善寺の開基・戒名:開善寺殿泰山正宗大居士)が清拙正澄(中国の名僧:京都建仁寺の僧)を招き開山したのが始まりと伝えられています。
信濃守護職小笠原家歴代の菩提寺として庇護され最盛期には境内に七堂伽藍と僧坊8宇の堂宇が建ち並び、応永34年(1427)には京都、鎌倉五山に次ぐ十刹に数えられ寺領2千石を領した禅宗清拙派の根本道場として寺運が隆盛しました。
明応8年(1499)と永正10年(1513)の火災により衰退しましたが天文18年(1549)、武田信玄の命により当時の当主小笠原信貴が再興しています。
天正10年(1582)、織田信長の信濃侵攻の兵火により再び堂宇の大部分が焼失しましたが文禄3年(1594)新たに飯田城の城主となった京極氏によって再興し妙心寺派に転派、慶長6年(1601)には伊那郡代官に就任した朝日受永により寺領35石が安堵されました。
その後飯田藩主となった小笠原秀政が寺領を追認しました(小笠原家と開善寺は特別な関係で、秀政、忠脩父子が松本藩に移封になると松本城下にも同じ寺号である開善寺を創建し寺領100石を寄進しています)。
現在の開善寺山門は室町時代初期に建立されたもので建立当時は楼門形式でしたが元禄時代(1688〜1704年)に参道の老松が倒壊し上層部が破損し単層門として改修されました。
山門は切妻、銅板葺き、三間三戸、八脚単層門、桁行3間、梁間2間、外壁は真壁造り板張り、室町時代初期の寺院山門建築の遺構として大変貴重な事から昭和27年(1952)に国指定重要文化財に指定されています。
開善寺には寺宝が多く 絹本著色八相涅槃図と画文帯四仏四獣鏡が国指定重要文化財に指定され鐘楼は国重要美術品に認定されています。
開善寺と伊那小笠原家との関係は深く、武田家の侵攻により没落した後も菩提寺として移封先に随行し天正19年(1591)には小笠原信嶺が本庄領1万石の領主になると救山宗温禅和尚を招き開善寺(埼玉県本庄市)を開山。元禄4年(1691)に小笠原貞信が勝山藩2万2千石の藩主になると開善寺(福井県勝山市)を開山し藩主の菩提寺となっています。
本堂は享保4年(1719)に再建されたもので入母屋、桟瓦葺、平入、入口屋根は唐破風、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ。山号:畳秀山。宗派:臨済宗妙心寺派。本尊:聖観音菩薩。
開善寺の文化財
・ 山門-室間初期-切妻,銅板葺,三間三戸,八脚単層門(旧楼門)-国指定重要文化財
・ 画文帯四仏四獣鏡-古墳時代-伝:御猿堂古墳副葬品,銅製-国指定重要文化財
・ 絹本著色八相涅槃図-鎌倉〜南北朝-縦162.5p,横116.0p-国指定重要文化財
・ 木造大鑑禅師坐像-南北朝時代-桧材,寄木造,像高111.1p-長野県県宝
・ 鐘楼-寛永8年-入母屋,銅板葺,袴腰付(下見板張、縦押縁押)-国認定重要美術品
八脚門を簡単に説明した動画
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