塩尻市: 小野神社

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概要・歴史・観光・見所
小野神社(塩尻市)概要: 小野神社は長野県塩尻市北小野に鎮座しています。小野神社の創建は不詳ですが伝承によると崇神天皇の御代(紀元前97年〜紀元前30年)に建御名方命の分霊を勧請したことが始まりと伝えられています。境内は建御名方命が科野に降臨後、諏訪へ向ったものの、諏訪の地には洩矢神が鎮座していた為入れず、やむを得ず当地に留まった霊地とされます。平安時代の大同年間(806〜810年)には坂上田村麻呂(征夷大将軍)が東夷東征の戦勝祈願をしたところ見事勝利に導いた事から桓武天皇(第50代天皇・在位:天応元年781年〜延暦25年806年)の勅願により社殿が造営され、境内の4隅には御柱が建てられたそうです。延喜式神名帳など国史や文献等に小野神社は掲載されていないもの信濃国二ノ宮とされ信濃国一ノ宮である諏訪大社に次ぐ格式を持っていたとされ広く信仰の対象となっていました。

治承4年(1180)に木曽義仲が当社で戦勝祈願を行うと倶利伽羅峠の戦で勝利、この戦が平家衰退の原因の1つでもあり、神意に感謝した義仲は社殿を造営しています。倶利伽羅峠の戦では牛の角に松明を付け敵陣を混乱させる「火牛の計」で平家の軍勢を撃退した故事から式年御柱祭の神事の1つ遷宮祭では、現在でも牛松明が焚かれてます。その後は歴代領主が崇敬庇護し永禄7年(1564)には武田勝頼が梵鐘を寄進と鐘楼の造営が行われ、天正10年(1672)には深志城(後の松本城)の城主小笠原貞慶が社領を寄進しています。古くから北方、南方と社殿が別れていましたが戦国時代になると境内が松本領と飯田領の領地境界線近くにあった為、境界争いが激化した天正19年(1591)に豊臣秀吉の命で盆地が北小野・南小野に分けられ北小野が小野神社、南小野が矢彦神社の境内(飛地)となりました。

江戸時代に入ると歴代松本藩(藩庁:松本城)の藩主から庇護され慶長19年(1614)には小笠原秀政が社領10石を寄進、元和3年(1633)には戸田康長が社領10石を寄進寛文12年(1672)には水野忠直が八幡宮本殿、本殿、副本殿、勅使殿を造営しています。境内は三州街道(伊奈街道)の宿場町である小野宿の南方に位置し旅人や物資の往来も多かった事から、街道利用者の多くが参拝したと思われます。江戸時代までは神仏習合していましたが明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が排され明治5年(1872)には村社、明治12年(1879)に郷社、明治33年(1900)に県社に列しています。小野神社の例大祭で7年毎、卯年と酉年の5月に行われる御柱祭は美しく素晴らしい衣装で知られ「人を見たけりゃ諏訪御柱、綺羅を見たけりゃ小野御柱、喧嘩を見たけりゃ宮木御柱」と歌われていました。祭神:建御名方命。

小野神社の文化財
・ 本殿−寛文12年−一間社流造、銅板葺−長野県県宝
・ 副本殿−寛文12年−一間社流造、銅板葺−長野県県宝
・ 八幡宮本殿−寛文12年−一間社流造、見世棚造、銅板葺−長野県県宝
・ 勅使殿−17世紀後半−切妻、銅板葺、四脚門−長野県県宝
・ 銅造千手観音坐像御正体残闕−鎌倉時代−総高18.7cm−長野県県宝
・ 小野神社社叢−長野県指定記念物
・ 鐸鉾−祭儀用の神器−塩尻市指定文化財
・ 梵鐘−永禄7年−青銅製、武田勝頼の寄進−塩尻市指定文化財
・ ねんじり棒祭−御田作祭−塩尻市指定無形民俗文化財
・ 御柱祭り−7年毎、卯年と酉年5月−塩尻市指定無形民俗文化財

小野神社:写真

小野神社
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