小諸市: 布引観音(釈尊寺)

  長野県:歴史・観光・見所小諸市:歴史・観光・見所>布引観音(釈尊寺)

概要・歴史・観光・見所
布引観音(釈尊寺)概要: 布引山釈尊寺は長野県小諸市大久保に境内を構えている天台宗の寺院です。布引観音の創建は奈良時代の神亀元年(724)又は天平20年(748)、聖武天皇の勅願で名僧として知られた行基菩薩が開山し、聖徳太子が自ら彫り込んだとされる聖観世音菩薩像を安置したのが始まりとされます。素晴らしい渓谷美と、その断崖絶壁に張り付くように建てられた懸崖造り(舞台造り)の観音堂が織りなす景観は文学作品の題材となり、多くの文人墨客が布引観音を目指しました(信濃の邪馬渓との異名があります)。一番古いものとしては平安時代末期に西行法師が布引観音(釈尊寺)に3年間という長期間滞在したとされ、寺伝では「 ・・・寺は聖武の御時に 僧の行基が開基より 西行法師も三年へて 晒らす御歌を残しけり・・・」とあり、「三年へて折々さらす布引を けふ立ちこめていつかきてみん」、「望月のみ牧の駒は寒からじ布引く山を北と思へば」の歌を残したと伝えられています(参道には西行法師が修行したと伝わる岩窟があります)。

天文17年(1548)に武田信玄が佐久地方に侵攻し、布下仁兵衛(長野県小諸市大久保字堀之内:堀ノ内城の城主)・楽厳寺入道(長野県小諸市大久保字前法:楽巌寺城の城主)と戦った兵火により多くの堂宇が焼失、布下氏と楽厳寺は領主である望月氏(長野県佐久市望月:望月城の城主)に従っていましたが、この戦いの結果、両氏は村上氏を頼り落ち延び、武田信玄の実弟武田信繁の長男である信頼が望月氏の名跡をついで望月家は事実上武田家に乗っ取られています。布引観音の由緒上は弘治2年(1556)に当時の望月城の城主である滋野左衛門佐が堂宇の再建を図ったとされますが、滋野左衛門佐とは望月信永(武田信繁の3男)の事で、実兄で上記の望月信頼が死没した永禄4年(1561)に望月家を継いだ為、氏名か年号どちらかに誤りがあると思われます。布引観音は天正10年(1582)に武田家が滅び、望月家が没落するまで庇護され、その後は小諸城の城主になった依田氏などに引き継がれたと思われます。

江戸時代に入ると歴代小諸藩(藩庁:小諸城)の藩主から庇護され、享保8年(1723)に火災により焼失後、翌年には当時の藩主である牧野周防守康明が再建しています。信濃三十三観音霊場第29番札所( 札所本尊:聖観世音菩薩・御詠歌:望月の 御牧の駒は 寒からじ 布引山を 北と思へば )。佐久三十三番観音霊場第1番札所( 札所本尊:聖観世音菩薩・御詠歌:ありがたや 思ひしことは 布引に いつか立ち来てを がむなりけり )。宗派:天台宗。本尊:聖観世音菩薩。

文学作品の題材にもなり、寛政3年(1791年)4月16日、江戸時代を代表する俳諧師の一人、小林一茶が布引観音に参拝した事が「寛政三年紀行」に記載されています。一茶はその後、善光寺を訪れ、布引観音に伝わる伝説をもじって「春風や牛に引かれて善光寺」の句を残しています。その他にも上州の俳人である生方雨什が寛政8年(1796年)8月12日に布引観音を訪れた様子が「ひとゝせ草」に記され、上州の俳人である夏爐庵兀雨が文化7年(1810)8月15日に布引観音で句会を開き、上州の俳人である川村碩布が文政7年(1824年)5月に布引観音を訪れ、戦前の歌人である若山牧水が明治43年(1910)9月15日にに布引観音を訪れた様子が尾上八郎宛の葉書に書かれています。

布引観音(釈尊寺)・境内−現在ある布引観音の境内に建立されている堂宇は再建当時のもので布引観音堂(懸造、入母屋、銅板葺、外壁は真壁造り板張り木部朱塗り、桁行5間、梁間5間半)や観音堂内部に設置されている宮殿(厨子建築、単層入母屋、板葺、桁行1間、梁間1間、梅鉢懸魚は日本唯一、正嘉2年:1258年建築、昭和24年:1949年に国指定重要文化財に指定)、白山社社殿(一間社入母屋造り、妻入、こけら葺、御牧原の白山地籍から移築、室町時代初期建築、昭和34年:1959年に長野県県宝に指定)、仁王門(三間一戸、入母屋、八脚単層門、外壁は真壁造り素木板張り、左右に仁王像安置)、護摩堂(入母屋、桟瓦葺、妻入、桁行3間、正面左右に花頭窓付)、愛染明王堂(岩窟内部に組まれた建物、桁行2間、木部朱塗、愛染明王安置)、太子堂(岩窟内部に組まれた建物、桁行2間、正面軒唐破風、聖徳太子像安置)などが残されています。

布引観音(釈尊寺)・伝説−釈尊寺は「牛にひかれて善光寺参り」の伝説の舞台となった寺としても有名で、伝説では千曲川で自堕落な生活をしていた老婆が白い布をさらしていたところ、善光寺如来が大牛に姿を変え角に布をかけ善光寺まで老婆を導いたと言われています。その夜、金堂の軒下で夜を明かすと霊夢に大牛が出現し、ヨダレで「牛とのみ思いはなちてこの道に、なれを導くおのが心を。」との御告げを書き、この地に戻ると白い布が石化していた事から、老婆は大牛が善光寺如来の化身と悟り改心し、釈尊寺の観音様を篤く信仰するようになったとされ、この逸話から布引観音と呼ばれるようになったそうです。

布引観音:写真

布引観音:入口
[ 付近地図: 長野県小諸市 ]・[ 小諸市:歴史・観光・見所 ]
布引二段滝 馬岩 見守り地蔵 牛岩 善光寺穴
不動滝 仁王門全景 仁王門入口 本堂 本堂向拝
護摩堂 白山社 太子堂 参道・洞穴 六地蔵
愛染明王堂 布引観音堂 布引観音:内部 布引観音:外観 布引観音:外観

布引観音(釈尊寺):境内・建物・見所

観音堂・宮殿観音堂・宮殿
・布引観音堂は享保8年(1723)の火災で焼失後、江戸時代後期に小諸藩7代藩主牧野康明により再建されたもので、懸造、入母屋、銅板葺、木部朱塗り、桁行5間、梁間5.5間、外壁板張り、高欄付内部に設置されている宮殿は鎌倉時代の正嘉2年(1258)に造営されたもので、厨子建築、単層入母屋、板葺、桁行1間、梁間1間、梅鉢懸魚、昭和24年(1949)に国指定重要文化財に指定されています。
白山社白山社
・白山社は布引観音(釈尊寺)の鎮守社で、室町時代初期に造営されたものと推定されています。当初は御牧原の白山地籍に鎮座していましたがその後、釈尊寺境内に移築されました。構造は一間社入母屋造り(春日造)、妻入(正面木製鬼面)、こけら葺、正面1間向拝付、外壁は真壁造素木板張り、昭和34年(1964)に長野県県宝に指定。
仁王門仁王門
・仁王門は布引観音(釈尊寺)の正門で三間一戸、入母屋、八脚単層門、桁行3間、張間2間、左右に仁王像(阿像・吽像)が安置されています。往時は仁王門から布引観音堂に参拝に行けましたが、参道が荒廃した為、現在は本堂を経由する参道が整備されています。
愛染明王堂愛染明王堂
・愛染明王堂は布引観音堂に続く参道沿いの岩窟に建てられた建物で、桁行2間、外壁板張り木部朱塗、内部には愛染明王が安置されています。愛染明王とは密教特有の憤怒相を主とする尊格である明王の一つで一切衆生を諸々の苦悩から救うために十二の広大な誓願を発しているとされます。
護摩堂護摩堂
・護摩堂は布引観音堂に続く参道沿いに建てられた建物で、木造平屋建て、入母屋、桟瓦葺、妻入、桁行3間、正面左右に花頭窓付、外壁素木板張り、護摩供養が行われていたと思われます。護摩とは主に天台宗密教寺院、真言宗密教寺院で行われる修法で当時の名残が感じられます。
太子堂太子堂
・太子堂は観音堂へと続く洞窟の前に構える御堂で、他の堂宇と同様に岩窟に組み込まれている形式を採用しています。布引観音が聖徳太子が彫刻したとの伝承から聖徳太子が信仰の対象になったと思われます。真偽の程は不詳ですが、天台宗の高僧である慈円、親鸞などが聖徳太子を篤く信仰しており大きな影響を受けたのではないでしょうか。
境内境内
・境内は千曲川とその支流によって形成された布引渓谷の急峻な岩肌に張り付くように伽藍配置が成されています。奇岩怪石や小滝は神聖な修行場である共に景勝地としても知られています。


※ 相談や質問は大変失礼ですが、メールのみとさせていただきます。 回答によって不都合や不利益をこうむっても当サイトは一切責任を負いません。又、回答を直接的(当サイトの名前を使って)に交渉や請求の手段とすることはご遠慮くださるようお願い申し上げます。 予告なしに追加、書き替えを行いますのでご了承ください。尚、「長野県:歴史・観光・見所」は「郷土資料辞典 長野県」、「長野県の歴史」「パンフレット」、「案内板」、「関係HP」を参考にさせていただいています。