・伝承によると、後に諏訪大社の祭神となる建御名方命が諏訪地方に進出しようとした際、諏訪地方に大きな影響力のあった洩矢神が君臨していた為、当地に留まったと伝えられています。「諏訪大明神絵詞」などにも諏訪地方を最初に制していたは洩矢神(地主神)とされ、その後、進出してきた建御名方命と大きな争いがあったとされます。そういう意味では、小野神社の地が古代信濃国で重要な役割を持っていた可能性があります。しかし、明確な記録が残っているはずも無く、所謂「六国史」や「延喜式神名帳」などにも記録が無い為、真偽の程は不詳、記録的な初見は鎌倉時代の嘉禎3年(1237)に編纂された「祝詞段」で「小野ワヤヒコ北方南方末若宮大明神」とあります。これから推察すると北方に小野神社、南方にヤヒコ(弥彦=矢彦)神社、末社として若宮大明神(八幡神社)が存在し、既に小野神社と矢彦神社の両社が分裂していた事が窺えます。さらに時代が下がるった天正7年(1579)2月8日には武田勝頼が弥彦神社(矢彦神社)の神官等に命じて高井郡井上郷等から浄財を集め、小野神社の社殿の造営を行わせています。ここでも2社が並列し片方の神官がもう片方の社殿造営に大きな役割を果たしています(武田勝頼は小野神社に対して庇護が篤く、永禄7年(1564)には銅鐘が奉納され、その銘を慈雲寺の住職天桂玄長に依頼し大旦那として諏訪四郎勝頼とあります。)。それに伴い小野神社の造営費用について南方久吉、熊井右馬丞が争論となり、その際の記録には「小野二之宮造営之儀」とある為、少なくとも当時には小野神社が信濃国二之宮だったという認識があったと推察されます。さらに、天正10年(1567)に仁科盛政が生島足島神社に奉納した起請文(基本的には武田信玄に対する忠誠心を神に誓うという内容)には信濃国の神の中では諏訪大社(上下)に次ぐ2番目に「小野南北大明神」と記載され、格式の高さと両社が並存した資料の1つとなっています。
それが、天正18年(1590)に松本城(長野県松本市)に石川数正が新たに配されると、飯田城(長野県飯田市)の毛利秀頼との間に境内地がある小野領を巡り領地の帰属を巡り境界線争いが勃発し、天正19年(1591)に豊臣秀吉の下した決断により小野神社と矢彦神社の境目が境界線に定められました。江戸時代以降は小野神社は松本藩領として歴代藩主の庇護を受け、一方、矢彦神社は天領として徳川将軍家から朱印状を賜り式年祭の際には木曽産の木材が寄進されていました。
こうしてみると、一つの小野神社が豊臣秀吉の裁定により2つ分けられたというより、少なくとも中世には2つ神社が鎮座しその境目を境界線に定めたという方が正しい印象を受けます。何故、格式の高い同規模の神社が並列しているのかは全くの謎で、社伝だけ信じれば、建御名方命を祭る小野神社一社あれば事足りるような印象を受け、一般的な山宮と里宮の関係や、秋宮と春宮の関係、碓氷峠の山頂で国堺の両側に並列する熊野神社の関係とは異なっています。矢彦神社は社号と祭神から察するに越後国一宮の弥彦神社(新潟県弥彦村)に通じ、弥彦神社と同様に天香語山命を祭っている事から、ある時期までは矢彦神社の主祭神は天香語山命だったとも考えられます(因みに熟穂屋姫命は天香語山命の妃神で、弥彦神社の奥宮にも祭られています)。しかし、そうなると、何故同規模で祭る必要性があるのか、又、越後国を意識するのであれば、矢彦神社の方が北側に境内を構える必要性があるのではないか、などの疑問が生じます。洩矢神が祭られていた説もありますが、諏訪大社で見られるように、戦いに敗れた後はあくまで諏訪神を支える立場となっているで同規模で祭られているのは考えにくいところです。全くの想像ですが、矢彦神社は元々は霧訪山を御神体とする地元神で、諏訪神に協力(又は領地を譲渡)する条件として国譲り神話で大国主が出雲大社を望んだように諏訪神と同規模な宮殿を求めたのかも知れません(この説が正しければ、諏訪神と洩矢神との闘いの際、当地が諏訪神の拠点になっていた事が合点します)。現在、霧訪山の山頂には小野神社が管理する合地社(祭神:伊装諾命・伊装冊命)が鎮座していますが、元々は矢彦神社の奥宮だったのかも知れません(想像ですが)。
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