北向観音(別所温泉)概要: 北向観音堂は別所温泉の温泉街の一角に境内を構えています。北向観音の創建は天長2年(825)、常楽寺背後の山から轟音と共に大地が揺れ周辺に甚大な被害をもたらしました。
それを見た慈覚大師円仁(平安時代の高僧、天台宗第3代座主、入唐八家)が大護摩を焚き祈祷した所、紫雲が立ち金色の光とともに観世音菩薩(千手千眼観世音菩薩・別称:北向観音・信濃三十三観音霊場札所客番・御詠歌:いくばくの 人の心を 澄ますらん 北向山の 峰の松風)が現れ大地を清浄化しました。
大師はこの観世音菩薩を模った木像を自ら彫り込み、胎内に収め、木造の宝塔を設けて祀ったのが北向観音の始まりと伝えられています。
南向きの善光寺(長野県長野市)に向き合っているところから「北向観音」と呼ばれ、善光寺が「未来往生来世の利益」を祈願するのに対し北向観音は「現世の利益」に御利益があることから「片方だけでは片詣り」と言われています。
安和2年(969)、平維茂(信濃守、戸隠山を本拠とする鬼女紅葉を討伐した武将、しかし傷ついた維茂は別所温泉で死去、温泉内にある将軍塚は維茂の墓と伝えられています。)が境内の整備や堂宇の大改修をするなど篤く庇護した事から運も隆盛しましたが、平安時代末期の源平合戦の際、木曽義仲の兵火により多くの堂宇が焼失し一時衰退しました。
北向観音の名声は広く知られていたようで、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・僧侶・歌人である西行法師は布引観音(長野県小諸市)から北向観音に参拝に訪れようとした際、橋の袂で蕨摘みをしていた子供に「子どもらよ、ワラビ(わら火)をとって、手を焼くな」となぞかけをしたら「法師さん、ヒノキ(火の木)笠着て頭を焼くな」と即答した為、別所の地は子供でも自分を超える程の知恵者がいる土地柄と思い込み、恐れをなして橋を渡る事が出来なかった故事から「西行の戻り橋」と呼ばれるようになったと伝えられています。
鎌倉時代に入ると幕府初代将軍に就任した源頼朝が再興、幕府執権北条家の一族である北条義政をはじめ塩田北条氏が庇護し建長4年(1252)には塩田国時(義政の子)が堂宇を再建しています。塩田北条氏は鎌倉幕府滅亡時に鎌倉に駆けつけ命運を共にした為、北向観音は庇護者を失い衰微しました。
江戸時代に入ると歴代上田藩(長野県上田市:藩庁−上田城)の藩主から寺領の寄進などの庇護を受けた事で再び注視されるようになり、特に江戸時代中期以降、庶民にも行楽嗜好が高まり、別所温泉の湯治や、北向観音はじめ、安楽寺や常楽寺に参拝する人が急増しています。
特に、上記の通りに善光寺と北向観音は対の関係性から、全国から信者が集まる善光寺に詣でた人が別所温泉や北向観音に立ち寄ったと思われます。
現在の北向観音堂は正徳3年(1713)に火災で焼失後の享保6年(1721)に再建されたもので入母屋、妻入、銅板葺、母屋のまわりに庇が付き正面には唐破風の向拝があるなど外観が善光寺本堂(撞木造り)のように見えます。
北向観音堂の西方崖の上に建てられた薬師堂は「医王尊瑠璃殿」と呼ばれる文化6年(1809)に再建された建物です。入母屋、妻入、本瓦葺、京都の清水寺に見られる懸け造りの形式で内部には温泉薬師信仰から薬師如来(中部四十九薬師霊場第2番札所)を祀っています。
又、北向観音境内にある愛染桂(上田市指定天然記念物)は樹高22m、幹周5.5m、枝張約14mの大木で天長2年(825)の大惨事では千手観音がこの木に登り住民達を救ったとの伝説が残っています(川口松太郎の著書「愛染桂」はこの木をモデルにしたとの説があります)。
北向観音の境内周辺は鎌倉時代後期に塩田北条氏が支配した塩田平と呼ばれる地域で、北向観音をはじめ、前山寺や中禅寺、生島足島神社、塩野神社などの社寺が点在し信州の鎌倉と呼ばれ多くの観光客が訪れています。塩田平札所めぐり客番。
北向観音の境内の石碑・歌碑・句碑
・ 松尾芭蕉句碑−安永3年建立−「観音の 甍 見やりつ 花の雲」
・ 北原白秋歌碑−昭和37年-「観音のこの大前に奉る 絵馬は信濃の春風の駒」
・ 中村雨紅歌碑−昭和37年建立−「夕焼け小焼の歌詞」
・ 花柳章太郎供養碑−「北向に かんのん在す しくれかな」
懸造を簡単に説明した動画
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