蕃松院(佐久市)概要: 大梁山蕃松院は長野県佐久市田口下町に境内を構えている曹洞宗の寺院です。古くは明法寺と称していた古寺で永禄3年(1560)には武田信玄より寺領六十貫の寄進されるなど有力な寺院でした。元亀年間(1570〜1573年)の兵火によって焼失し一時衰退、天正8年(1580)儀山げん孝大和尚によって曹洞宗に改宗開山し境内が整備されました。天正11年(1583)に小諸城主松平康国が父親である依田信蕃の菩提を追善供養の為、信蕃の居館(田口城)跡である現在地に移し戒名「蕃松院殿節叟良?大居士」に因み寺号を蕃松院に改称しました。江戸時代に入ると当地は奥殿藩領(当時は三河奥殿に藩庁があり当地は飛地として陣屋が置かれていましたが、幕末になると当地に龍岡城五稜郭を築き藩庁を移した為、龍岡藩又は田野口藩に改称)となり天明6年(1786)から歴代藩主の位牌が安置された事で藩主大給松平家の領内菩提寺として庇護されました。
現在の蕃松院本堂は寛政2年(1790)落雷で焼失した後、文政5年(1822)に再建されたもので木造平屋建て、入母屋、本瓦葺、平入、桁行11間、正面唐破風向拝付、外壁は真壁造白漆喰仕上げ、寺院建築としては佐久地方屈指の規模を誇り彫刻なども多彩で見ごたえのある建物です。蕃松院仁王門は明治時代初期に建てられたもので、三間一戸、入母屋、桟瓦葺き、八脚二重楼門、桁行3間、張間2間、上層部高欄付き、外壁は真壁造り板張り、下層部左右には仁王像安置、意匠は質素ですが威風堂々とした力強を感じます。又、山門は切妻、茅葺、一間一戸、薬医門で参道の両側にある多行松の並木は樹形が珍しく印象的です。蕃松院の境内には依田信蕃とその奥方の墓碑と伝わる五輪塔が建立されている他、佐久市指定文化財に指定されている磨崖青面金剛(制作年不詳、横135cm、縦80cm)などがあります。本山:永平寺(福井県永平寺町)・総持寺(神奈川県横浜市鶴見区)。山号:大梁山。宗派:曹洞宗。本尊:釈迦如来。
【 蕃松院:菩提者(依田信蕃) 】−天正11年(1583)に松平(依田)康国が小諸領6万石の領主になると父親である依田信蕃の菩提を追善供養の為、明法寺を現在地に移し再興開山し信蕃の戒名「蕃松院殿節叟良?大居士」から蕃松院に改称しました。依田信蕃は武田信玄、武田勝頼に従った佐久地方の領主で猛将として知られていました。特に徳川軍との二俣城の攻防戦では半年にわたる籠城戦でも城を守り抜き、全家臣の助命を条件に開城し、田中城の攻防戦でも結局城を守り抜き、主家である勝頼の自害を持って開城に応じています。その後、一時織田信長の家臣滝川一益に従いますが、本能寺の変により一益が自領に引き上げると徳川家康と通じ、武田家の遺領を巡る北条家の戦いで結果的に信州の大部分が徳川領となる大功を上げています。信蕃が死去すると嫡男、竹福丸は松平姓と家康の「康」の字、小諸城6万石が与えられました。蕃松院(長野県佐久市)の境内には信蕃の墓碑と伝わる五輪塔が建立され、本堂には位牌が安置されています。
【 蕃松院:菩提者(大給松平家) 】−宝永元年(1704)、大給藩(後の奥殿藩、田野口藩、龍岡藩)の3代藩主松平乗真の代に元々の近畿地方にあった1万2千石分の領地が信濃国佐久郡1万2千石分と交換となり当地域は大給藩領となりました。とはいっても大給藩は総高1万6千石だった為、4分3の領地は佐久郡内にあり天明6年(1790)には蕃松院が松平家の領内菩提寺に指定され、歴代藩主の位牌が安置される事になりました。本墓は奥殿陣屋背後に廟所を設けて埋葬され、江戸菩提寺として浄土寺(東京都港区赤坂)と香林寺(東京都港区麻布)がありました。最後の藩主となった松平乗謨は名君とされ文久3年(1863)に当地に陣屋移転の届出を出すと元治元年(1863)に日本全国に2例しか存在しない五稜郭(龍岡城)を築城、軍制をフランス式に近代化しました。幕政では大番頭、若年寄、陸軍奉行、老中・陸軍総裁などの要職を歴任し幕末の幕府を支える一翼を担っています。又、明治維新後は日本赤十字社の前身である博愛社を創設に尽力しています。
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板(由来)-蕃松院
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