長野県の重伝建地区:概要一覧
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妻籠宿
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妻籠宿(中山道宿場町)概要: 中山道は古くは東山道と呼ばれ機内と内陸部を結ぶ道路として知られていましたが、戦国時代に入ると戦略的に重要視され飛躍的に整備されました。妻籠宿も室町時代末期には宿場町として成立していたと推定され、関ヶ原の合戦の際には中山道を進軍していた徳川秀忠は妻籠宿(木曽郡南木曽町)で東軍の勝利の報告を知ったと言われています。江戸時代に入り中山道(木曽路)が整備され慶長7年に宿場として67宿を制定し、妻籠宿は正式に宿場町として認められています。妻籠宿には本陣、脇本陣、問屋が置かれ江戸時代初期までには口留番所が設置されるなど重要視され大平街道が交差していた交通の要所として多くの人達が行き交いました。妻籠宿は大きく宿場、寺下、在郷と分かれ、宿場では木造2階建て、切妻、平入りで2階部は出桁造りで張り出し比較的間口の広い建物で構成しています。寺下は光徳寺の門前町として発展し上・下嵯峨屋など間口が狭く比較的規模の小さい町屋で構成され、在郷は農家建築と町屋が混在しています。妻籠宿は明治時代以降、主要交通が街道沿いから外れた為、現在でも旧中山道宿場町の町並みを色濃く残り昭和51年に重要伝統的建造物群保存地区に昭和56年長野県自然保護条例の郷土環境保全地区に指定されています。
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海野宿
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海野宿(北国街道宿場町)概要: 北国街道が開削された寛永2年当時は海野宿(東御市)と田中宿は合宿でしたが寛保2年の大洪水で田中宿が大被害を受けると本陣が海野宿のみとなり本宿となりました。海野宿には本陣1軒、脇本陣2軒が設けられ参勤交代で宿泊や休息で利用する大名や善光寺詣での参拝客、佐渡金山で採掘された金や鉱物の輸送などで大変賑わいました。延享3年に記録された「海野宿屋敷割図」には総延長約6町宿場の東西に枡形、中央に水路が設けられ両側には103軒の家屋が軒を連ねていたとされ25頭の馬が物資や書簡などの物流を支えていました。明治時代に入ると宿場制度が廃止されると海野宿にある本陣や脇本陣、旅籠などの旅館業が急速に衰退し、変わって養蚕業が発達します。現在見られる海野宿の町並みの中にも元々旅籠だった建物を改築し養蚕場とし屋根上部に「気抜き」と呼ばれる煙出しの小屋根を揚げている様子が随所に見られます。養蚕業は大きな富をもたらし、海野宿の町並みの特色の1つでもある「袖うだつ」を外壁の両側に上げる家が増え現在見られるような特徴ある町並みが形成しました。海野宿は現在も良好な町並み保存され昭和62年には重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
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木曽平沢
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木曽平沢(漆器町)概要: 木曽平沢(塩尻市)は中山道沿いに発展した町ですが正式な宿場町ではなく、鳥居峠を控え「奈良井千軒」とまで言われた隣接する奈良井宿の枝郷でした。慶長3年に奈良井川の対岸にあった中仙道(中山道※木曽路)を現在のように付け替え、さらに慶長7年に街道の整備が行われた際、町割が行われ木曽平沢町が形成されたと推定されています。寛永2年の大火により多くの建物が焼失、その為、新たな町割では主屋と街路との間にはアガモチと呼ばれる空地を設けたり、隣の主屋同士も近接させず敷地奥にあるヌリグラ(漆塗りの作業場)への通路にするなど火災への工夫が見られます。基本的な主屋は2階建て、又は中2階建て、切妻、平入、板葺石置屋根で間口が3間が多く、ヌリグラは通常の土蔵より開口が大きくとり漆器の作業に適した建物になっています。木曽平沢は全国的にも少ない漆器生産の町として特徴ある町並みで伝統的町屋や塗蔵など多数現存していることから平成18年に重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
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奈良井宿
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奈良井宿(中山道宿場町)概要: 奈良井宿(塩尻市)は戦国時代に武田信玄が街道を整備した際、宿駅として設置された事が都市的な起源とされます。慶長5年の関が原の戦いでは徳川秀忠の徳川本隊が中山道を西上し重要性が改めて認識されています。慶長7年に本格的に中山道が整備され六十七の宿場が設置され伝馬制度も整備されました。奈良井宿もその一翼を担い、特に中山道の中でも最大の難所と呼ばれた鳥居峠を控えていた事で、奈良井宿で多くの旅人や物資の運搬者が宿泊や休息で利用した為、大きく発展し「奈良井千軒」と称される程に繁栄しました。奈良井宿は南北約1キロ、東西約200m、宿場の両端には守護神となる神社が鎮座し山裾には5つの寺院が境内を構えていました。奈良井宿は上町、中町、下町の3町で構成され、宿場町を経営する主要施設である本陣、脇本陣、問屋は中町に集中して設けらました。町並みを形成する町屋は概ね木造厨子2階建、切妻、平入、鉄板葺(旧石置き屋根)、2階正面は前に張り出す出桁造、2階外壁両端には防火用の袖壁、1階には下屋庇(小屋根)が設けられています。現在も良好な町並みが保たれ昭和53年に国の重要伝統的建造物群保存地区の選定されています。
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青鬼集落
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青鬼集落(農山村集落)概要: 青鬼集落(白馬村)の成立は不詳ですが鎮守である青鬼神社の創建が大同元年(西暦806)と伝わっている事から古くから人々が住み着いていたと思われます。集落には千国街道と長野地方とを繋ぐ街道が通っていたことで、江戸時代には善光寺や戸隠神社の参拝者が利用していたそうです。現在でも青鬼集落には江戸時代後期から明治時代に建てられた寄棟(正面はかぶと造り)、茅葺(現在は鉄板で覆われている。)の古民家14戸や、青鬼神社、「向麻石仏群」、「阿弥陀堂石仏群」といった宗教史跡、石垣で囲まれている200枚の棚田、江戸時代末期に開削された青鬼堰などが良好に残されています。青鬼集落は当時の山村集落の景観が残されている貴重なものとして平成12年に集落と周辺地域南北約0.7キロ、東西約2.0キロ、面積59.7ヘクタールが重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。又、青鬼集落の背後にある棚田は平成11年に日本の棚田百選に選定されています。
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稲荷山宿
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稲荷山宿(商家町)概要: 稲荷山宿(千曲市)は戦国時代の天正11年(1583)、杉景勝(春日山城主・越後国守護)が築いた上稲荷山城の城下町として成立した町で、桑原郷11ヵ村から住民を募り町割りされています。同年には鎮守社となる諏訪社の下社勧請され、極楽寺も境内を稲荷山宿に移し、天正17年(1589)には長雲寺も現在地に移されています。慶長3年(1598)に上杉景勝が会津領に移封になると、豊臣秀吉の家臣である田丸直昌が松代城(海津城)4万石で入封し、稲荷山宿はその支配下に入っています。元和8年(1622)に上田藩領となり、一時天領となりましたが、享保15年(1730)に再び上田藩領に復帰しています。稲荷山宿は中山道の洗馬宿と北国街道丹波島宿を結ぶ善光寺西街道の宿場町で、善光寺西街道は大消費地だった松本城の城下町と善光寺の門前町を結び、さらに稲荷山宿からは谷街道が分岐する交通の要衝だった事から、多くの物資が集められ一大商業都市として発展しました。特に江戸時代末期から明治時代にかけては生糸輸出の拠点となり大きく発展しました。稲荷山宿は現在も良好な町並みが保たれ平成26年に国の重要伝統的建造物群保存地区の選定されています。
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