白馬村(歴史)概要: 白馬村は古くからヒスイや滑石の産地だった為、中央との繋がりが強い地域で村内には多くの古墳が点在しています。それらの鉱石は後に千国街道や塩の道と呼ばれる山間の道を通して日本海から中央へ運ばれたと考えられています。平安時代後期の白馬村周辺は「千国庄」と呼ばれる六条院(白河上皇の長女である都芳門院婿子内親王の御所)の荘園の1つで白馬、小谷地方には4つの荘園があった事から「小谷四ヶ庄」と呼ばれていたようです。中世に入ると平家あるいは奥州の支配者安倍氏の後裔とされる仁科氏が支配し、白馬村では仁科氏の一族である飯森氏や沢度氏がその任に当たっています。
これらの諸氏は三日市場神明社や長谷寺などの社寺との関係が強く文化面でも大きな影響を持ちました。戦国時代末期に仁科氏が滅んだ後の江戸時代は松本藩に属し佐野、沢渡、飯田、飯森、桐山、蕨平、塩島の7村が認められています。松本城下(現在の長野県松本市)と糸魚川(現在の新潟県糸魚川市)を結ぶ千国街道も改めて整備され参勤交代では利用されなかったものの、多くの物資や旅人が利用し白馬村に大きな富をもたらしました。
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