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旧渡辺家住宅(岡谷市)概要: 旧渡辺家住宅は長野県岡谷市長地柴宮に位置している古民家です。
渡辺家は代々高島藩に仕えた散居武士で、藩庁が置かれた高島城の城下町ではなく在郷の村々に住んだ在郷武士とも呼ばれ、比較的石高の低い下級武士に格付けられていました。
江戸時代末期の安政年間(1855〜1860年)に記録された「家中分限帳」によると、「郡方下役外様御徒士18俵2人扶持渡辺斧蔵」、「諏訪史料叢書」には「大納戸」と記されています。
斧蔵の長男である渡辺千秋は当初は高島藩に出仕したものの、明治2年(1869)には伊那県に出仕し、明治8年(1875)には筑摩県権参事となっています。
その後、鹿児島県大書記官、鹿児島県令、鹿児島県知事、行政裁判所評定官、滋賀県知事、北海道庁長官、内務次官、京都府知事などを歴任しています。
大久保利通に重用され宮内省内蔵頭に抜擢されると、宮内省御料局長を経て、明治43年(1910)には宮内大臣に就任しています。
渡辺千秋の弟である渡辺国武は高知県令や福岡県令などを歴任した後、大蔵省に入省しています。
大蔵省では書記官や、調査局長、主計局長、次官を歴任し、明治25年(1892)には伊藤博文から大蔵大臣に抜擢されています。
さらに、明治28年(1895)には通信大臣、その後は合計3度の大蔵大臣を担っています。
渡辺千冬は、渡辺千秋の3男として生れたものの、渡辺国武の養子となり、東京帝国大学法科を卒業すると電報新聞や日本興業銀行、日本製鋼所、北海道炭鉱汽船などに入っています。
その後、政界に入り、衆議院議員・貴族院議員を経て、昭和6年(1931)に若槻禮次郎内閣総理大臣から司法大臣に抜擢されています。
旧渡辺家住宅は18世紀中期に建てられ、19世紀半ば(江戸時代末期)に改築されたと推定されたもので、木造平屋建、寄棟、茅葺、平入、桁行7間半(約13.5m)、梁間5間(約9m)、外壁は真壁造り、土壁鏝押え。
内部は土間が広く炉の間があるなど農家建築に近い形式ですが、座敷に中床を設けるなど当時の在郷武士の生活の一端を見ることが出来ます。
高島藩からの支給だけでは生活出来ない事から広い土間で農家的な仕事もしていたと思われます。
北側には天袋、地袋、床の間付の8畳の座敷と8畳の次の間、西側中央には5畳の書斎、南側には中床付の8畳の居間、板の間9畳の台所が配されています。
南側の居間と台所の戸口には袖壁をつけ閉鎖的である特徴から18世紀中頃に建てられた建物と推定されています。
旧渡辺家住宅は現存する数少ない江戸時代中期の下級武家屋敷の遺構として貴重な事から平成5年(1993)に長野県の県宝に指定されています。
現在は岡谷市の郷土学習館として展示保存され一般公開されています。
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板-岡谷市教育委員会
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