象山神社(長野市松代町)概要: 象山神社は長野県長野市松代町に鎮座している神社です。明治44年(1911)に松代象山会が結成されると松代出身で江戸時代末期に政治家や科学者、思想家として活躍した佐久間象山を祀る神社の創建の機運が高まりました。
大正2年(1913)に、佐久間象山の殉難50年際を行った際、松代町出身で大審院長を担っていた横田秀雄が中心となり、具体的な象山神社創建の動きが活発化し、長野県内の市町村及び信濃教育会、全国の学校関係者等が協力したとされます。
昭和6年(1931)に創立許可を得て、昭和13年(1938)に、旧象山邸の敷地に社殿が建立されたのが象山神社の始まりとされ県社に列格しています。
その後、昭和48年(1973)に東京都杉並区から望岳賦の碑を移築、昭和53年(1978)に長野市松代町内から高義亭を移築、昭和56年(1981)に京都市中京区から煙雨亭を移築する等、随時境内が整備されました。
望岳賦の碑は明治23年(1890)に佐久間象山の義兄弟の契りを結んだとされる村上政信が、自分の邸宅内に象山が天保12年(1841)に筆した「望岳賦」の直筆を彫り込んだ石碑で、その後東京都杉並区の高円寺修道院に遷され、象山神社創立35周年を記念して現在地に移築されています。
高義亭は佐久間象山が嘉永7年(1854)に吉田松陰がアメリカの黒船に乗り込んでの密航を画策し、露呈した事件に関わったとして連座し、文久2年(1862)まで松代城下の松代藩家老望月主水下屋敷に蟄居していた時の建物とされます。
煙雨亭は蟄居を終えた佐久間象山が元治元年(1864)に京都に上った際、京都三条木屋町の鴨川沿いで約2カ月の間暮らした一軒家の窓から見た「雨に煙る」風景が何とも言えない風情を感じ、煙雨楼と名付けた事を由来した家の敷地内にあった茶室です。
佐久間象山は文化8年(1811)に松代で生まれ鎌原桐山や佐藤一斎に師事、天保10年(1839)には象山書院を、嘉永4年(1851)には五月塾を開いて多くの門弟を持ち、勝海舟や坂本龍馬、吉田松陰などに大きな影響を与えたと言われています。
幕末の天保13年(1842)に松代藩8代藩主真田幸貫が幕府の老中兼任で海防掛に抜擢されると佐久間象山はその片腕として「海防八策」を上書する等、横浜港開港や開国にも大きく関わりました。
象山は政治家としても有能で多くの新田開発や治水事業、鉱物採掘等を行い、日本で最初の電信開発者としての科学者としての一面もありました。
安政元年(1854)に吉田松陰の密航に関与したとされ松代で幽閉となり9年後に開放されましたが元治元年(1864)に54歳の時に攘夷派の浪士により暗殺されています。
象山神社の本殿、拝殿、祝詞殿、宝殿、絵馬殿、斉館、社務所は昭和13年(1938)に当社が創建した当時の建物で、「造形の規範となっているもの」との登録基準を満たしている事から平成17年(2005)に国登録有形文化財に登録されています。
境内には松代城の城下時代に整備された水路から水を取り込んだ心字池を中心とする庭園があり、心字池には中島とそれに掛かる石橋、背後の竹林が神社の景観に大きく寄与し、江戸時代の水路網を継承する昭和初期の庭園としても貴重な存在です。
象山神社園池は貴重で「造園文化の発展に寄与しているもの」との登録基準を満たしている事から平成20年(2008)に国登録記念物に登録されています。祭神:佐久間象山。旧県社。
象山神社の登録有形文化財
・ 本殿−昭和13年−三間社流造、銅板葺き、建築面積33u
・ 拝殿・祝詞殿−昭和13−木造平屋、入母屋、銅板葺、建築面積132u
・ 宝殿−昭和13年−木造平屋建、切妻、銅板葺、建築面積30u
・ 絵馬殿−昭和13年−木造平屋建、入母屋、銅板葺、建築面積50u
・ 斉館−昭和13年−木造平屋建、入母屋、桟瓦葺、建築面積205u
・ 社務所−昭和13年−木造平屋建、入母屋、銅板葺、建築面積229u
・ 園池−登録記念物
|