上田藩主居館跡概要: 上田藩主居館は上田城の三の丸にあたり、上田藩の藩主が代々生活してきた場所で「御屋形」と呼ばれてきました。慶長5年(1600)の関が原の戦いで宗家である真田昌幸は西軍に与し徳川家と対峙、上田城攻防戦が徳川秀忠の遅参の原因となった為、昌幸が九度山(和歌山県伊都郡九度山町)に流された後は徹底的に破却されました。上田領を加増された真田信之はこの地に居館を設け、その後の上田藩主となった仙石家や松平家も同じく同地に居館と藩庁を設けました。その為、上田城の城郭が整備された後も本丸や二ノ丸には御殿などの施設は設けられず、三の丸である当地が事実上の本丸として機能しました。藩主居館は堀を含めた広さが東西135.5m、南北135.2m、内部には御表(大書院・大広間)、勝手(小書院・表居間)、御奥(寝室・側室の部屋)の三つの殿舎群で構成されていました。現在ある表門は寛政元年(1789)に火災で焼失後の寛政2年(1790)の再建されたもので切妻、桟瓦葺、三間一戸、中央には大扉、左右には潜門付、薬医門としては長野県最大規模を誇り、土塀は江戸時代末期の文久3年(1863)に築かれたものです。藩主居館表門及び土塀・濠・土塁は江戸時代の大名屋敷の外廻りを知る好例として昭和44年(1969)に上田市指定史跡に指定されています。
薬医門を簡単に説明した動画
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板-上田市教育委員会
・ 現地案内板(上田城下町絵図)
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